生であること
田島貴男さんによるベランダ音楽会。Vol.1をリアルタイムで、Vol.2をリアルタイムでなく数時間後に視聴しました。
それで思ったのは、
たとえ画面越しでも“生”っていいなということ。
すこし前の話になるのですが、救急搬送された晩に親友とオンライン飲み会をしました。
初めてのオンライン飲み会ということで、数日前からおつまみを買って準備して。
「もう病院から帰ってきたよ。遅れてごめん、21時20分から始めよう」と連絡して、その時間に電話をかけました。
すると、画面に親友の顔。(左上には私の顔が小さく映っています。)
わあああ!!(興奮)
親友とはいつもLINEのやりとりをしているのですが、全然違う。
そして、音声のみの電話ともまた違う。
顔が見えるだけでこんなにも違うとは…。
と、このように二つの異なる場面で“生”であることのメリットを実感したわけですが、それらの良さを認識したと同時にその限界にも気づきました。
画面越しでの生配信ライブやオンライン飲み会ではどうしても再現できないもの。
それは「空気」です。
物理的な意味での「空気」もそうだし、「雰囲気」等の意味でもそうだし。
オリジナル・ラブ札幌公演の行われた会場のすこしひんやりした空気や、ツアーファイナル・東京会場の湿度が高くじめっとした空気。ペトロールズのライブのまるで会場全体がキラキラ輝きだすような空気や、岡村ちゃんとのDATEで感じる紫色の空気。
親友と久しぶりに再会して抱き合った時の体温や、知人と飲んだ別れ際にありがとうと言われて握手したときの手の感触、古くからの友達と日付が変わってもダラダラ飲んでいるときのお互いリラックスできる間柄ならではの雰囲気。
これらはすべて、その場を共有していないと決して体感できないものです。
今年の1月までの私は、田島さんが年に3回札幌に来てくれるのも、そのライブに何の支障もなく行くのも、ペトロールズを近い距離で見られるのも、岡村ちゃんとDATEできるのも、友人知人と好きなときに好きなところで会えるのも、すべて当たり前だと思っていました。
でもこれからは、
次はない。
そう思ってすべてに臨もうと思います。
新型コロナウイルスのせいでありきたりな日常がいとも容易く失われてしまうことも、健康なはずの自分が何の前触れもなく突然死んでしまうかもしれないこともわかったので。
“生”の何かを体感して生きていることを実感できる、その瞬間を楽しみに今のこの状況を乗り切ろう。そう思う今日この頃です。