どこまでも果てなく堕落の道を歩みたい二児の母のブログ

ああでもないこうでもないと考えたいろんなことをちょこちょこ記録します。

映画『マディソン郡の橋』(ネタバレあり)

クリント・イーストウッドのぺったり貼りついた前髪がいやに心に残ってしまってつらい。

 

先日はこれを観ました。

マディソン郡の橋』(1995)

 

クリント・イーストウッドの肉体がすごかった。

撮影時に65歳とは思えない肉体だった。

 

肉体の話はさておき。

主人公である田舎の主婦・フランチェスカの気持ちにはところどころ共感できた。

毎日代わり映えのしない生活で、家族のために尽くしていることに対して感謝もされない状態が当たり前になっているところに現れた、自分の知らなかった世界を見てきた男・ロバート。出会った瞬間からお互いに好意を持ったのがわかる。

夫や子どもたちは何度言ってもドアの閉め方が乱暴なのに(そしてフランチェスカはそのことを不快に思っている)、ロバートは最初から静かに閉めてくれる。夫はフランチェスカが食事の準備をしていてもまったく手伝おうとしないのに(意地悪でそうしているのではなく、手伝わないのが当たり前になっている)、ロバートは当たり前のように手伝ってくれる。そうそうそう、こういうところで好感を持っちゃうんだよねー。

 

夫は善人だけれど容貌もパッとしない退屈な男(ただ、善人なだけではなく「妻には家にいてほしいから」と教師の仕事を辞めることを求めてしまうようなある意味古臭い考え方の持ち主であり、なおかつそれを配偶者にも押し付けてしまうタイプであることが明らかになる)。一方のロバートは根無し草のような生き方をしているように見え、家庭を持つのに適しているとはとても思われないんだけれど、自分の信念を貫けるワイルドで誠実で魅力的な男。

 

家族不在の数日間共に過ごしたその男が、自分と一緒に行こうと言う。

魅力的な男性・ロバートに女性として強く惹かれているフランチェスカはどちらを選ぶか。

 

 

 

この映画を観て改めて感じたのは、人生は選択の連続で、何かを選ぶことはすなわち何かをあきらめることなんだということ。

そして結婚というのは、「したいこと」(=家族も住む町も捨ててロバートについて行くこと)と「(実際に)できること」(=田舎に残って今の家族とともに暮らし続けること)との間で悩み、たとえどちらかを選択したことで心が乱れても、そんな自分の気持ちになんとか折り合いをつけていくことが求められる営みなんだなぁと思った。

「したかったこと」(教師を続けること)と「実際にしてきたこと」(夫の希望で辞めてしまったこと)との間の決して埋められない溝について、自分の中で納得して受け入れることも大切なんだろう。もっとも、これは結婚生活に限らず人生全般に関してそうだと思うけれど。

 

 

最初のシーンでは身なりにも気をつかっていない疲れた田舎の主婦でしかなかったフランチェスカが、ロバートと出会ったことで女性としての自分を取り戻してどんどん綺麗になっていくのがものすごくリアルで良かった。

 

ひとつ思うのは、

もし子どもたちがいなかったら、あるいは既に自立していたなら、フランチェスカはどうしていただろう?

 

 

そして何度思い返してもロバートが雨の中で立ち尽くしているシーンは哀れだったな…。一緒に観ていた夫は「イーストウッドはこの哀れな男を演じたかったんだよ!!」と力説していたんだけど、お主はイーストウッドの何を知っているんだ。