どこまでも果てなく堕落の道を歩みたい二児の母のブログ

ああでもないこうでもないと考えたいろんなことをちょこちょこ記録します。

おじいちゃんの話

自分が「ああ親になったんだなあ。」と思うとき。

ずっと嫌いだと公言していた小さい子どもをかわいいと思ったときでもなく、自分の洋服のことを忘れて子どもの洋服を選ぼうとしているときでもなく、ひとりで外出した際に留守番している娘のためにおみやげを探しているときでもなく、

絵本作家の方の訃報に反応するようになったとき。

 

我が家でも繰り返し読まれている本の作者であるわかやまけんさんが85歳で亡くなっていたことを知りました。80代で亡くなった男性のニュースを目にすると、4年前に87歳で亡くなった祖父を思い出します。

今週はお盆だったので、おじいちゃんのことを書こうと思います。

 

おじいちゃんの生い立ちについては息子である父から断片的にエピソードを聞いただけであまり詳しくは知らないのですが、東京生まれ東京育ちのおじいちゃんが北海道の田舎町である美唄の駅に降り立ったとき、「東京からお洒落でなんまら男前な人が来たべや、あんた見たか?」と町中の女性たちが色めき立ったそうです。(その女性たちのひとりがのちに結婚することとなる祖母です。)

サラリーマンとして働いていた時には、理不尽な上司と揉めて、その上司を殴って辞表を叩きつけたそうです。(それで職を失っても、きちんと働いていたことを知っている知り合いが「俺のところに来い」と言って助けてくれたそうです。良い時代だったのですね。)

真面目に誠実に仕事に取り組む一方で大酒飲みでもあり、酔った状態でいつものように電車で世田谷の自宅に帰るつもりがうっかり熟睡して小田原まで行ってしまってタクシーで帰ってきたそうです。(そのときのタクシー代が数万円だったことについて晩年までおばあちゃんにぐちぐち文句を言われて居心地悪そうにしつつ、「日本酒はな、くいっくいっと入ってしまうから、ぶたちゃん飲み過ぎには気をつけないといけないぞ。」と実体験を踏まえて何度も神妙な面持ちで話してくれました。)

私と弟がまだ小さかった頃、車に乗せて森林公園や遊園地やプールに連れて行ってくれました。おじいちゃんと遊びに行くのはとても楽しかったのですが、プールだけは寒中水泳の選手だった血が騒いでしまうのか、孫放置で本気を出して25メートルプールをひたすら黙々と泳ぎ続けていて、弟と私は子どもプールでぽつーんとしていました。(それが理由かはわかりませんが、それ以降プールには行かなくなりました。)

 

「腰かける」「くたびれる」「こしらえる」といった、古きよき日本語を使っていたおじいちゃん。

私がゆきまる(娘・4歳)を妊娠中に、病気で入院していました。当時住んでいた関西から里帰り出産のために札幌へ戻ってきてから「おじいちゃん実は入院しているんだよ。」と聞かされたのです。病院にお見舞いに行って久しぶりに会ったおじいちゃんはすっかり痩せこけてしまっていました。それでも頭はしっかりしているし看護師さんたちにも気を遣っていて、病気で弱ってもおじいちゃんはおじいちゃんだなと思ったものです。

 

そのお見舞いの日から2ヶ月が経った、真冬のある日の晩。病院から電話がかかってきました。平たく言えば、おじいちゃんがもう間もなく息を引き取りそうなので至急来てほしいとの内容で、電話を受けた私はそれを父に伝えました。その日は朝にも一度危篤状態に陥ったため家族で病院へ行っていて、そのときは持ち直したので一旦帰宅していたのですが、今度こそはもうだめだろうという予感がしました。

おじいちゃん。きっと亡くなってしまうだろう。最期は私も見届けたい。

だけど今日は出産予定日で、臨月の娘を乗せた車じゃお父さんはきっとスピードを出せない。そしたらおじいちゃんは家族の誰もいないところでひとりで死んでいくことになる。

「私を乗せて行ったら間に合わないから、3人で行って。」

両親と弟は大急ぎで出掛けて行きました。

 

とてつもなく長い時間が過ぎたように思いましたが、約30分後、母からメールが届きました。「おじいちゃんが亡くなりました」。お皿を洗っていた私は、台所で大泣きしました。泣きながらお皿を洗い続けました。

間に合ってよかった。これでよかったんだ。

だって、バタバタしていて言い出せなかったけど、朝からなんだかお腹が痛いんだよ。

今だって、いつもと違う感じがするんだよ。

 

悲しい気持ちのまま眠りについた数時間後、突如激しい腹痛に襲われてタクシーで病院へ向かった私は、4時間後に娘を出産しました。

おじいちゃんが亡くなってから9時間後のことでした。

 

出産直後だったため、お通夜にもお葬式にも出られませんでした。おじいちゃんが骨になった姿を見ることができなかったので、いつまでも亡くなった実感が湧きませんでした。

そんなある日、おじいちゃんの部屋でファイルを見つけました。そこには几帳面な文字で「ぶた子 上京日記」と書かれていて、大学進学と同時に上京してからたまに描いては実家に送っていた自作漫画のコピーが綺麗にファイリングされていました。それを見た途端、涙が溢れました。

もっと遊びに行ってあげればよかった。

同じマンションに住んでいたのに、帰省した時に一度か二度行けばいいやと思ってしまっていた。

こんなものをとっておくくらい私のことを大事に思っていてくれたなら、いろいろな話を聞いておけばよかった。

弟の運転する車で泣きながらそう話すと、弟は「ぶた子は十分やってたんじゃないの?あれ以上はできないしょ。」と言ってくれました。

 

あれから4年が過ぎました。おじいちゃんと入れ替わるようにして生まれてきたゆきまるを、父はかわいがってくれています。古い考え方の人なので、男児の方を「墓守り息子」と言って重宝するようなところがあるのですが、ゆきまるのことを「父さんと一番最初に会ったんだよな。」と思っているようで、何か特別な思い入れがあるようです。

 

ゆきまるが生まれて間もないころ、そのほっぺたを触りながら「お前はいいなあ。これから何十年も生きられるんだもんな。」と話しかけていた父の姿を今でも思い出します。

私もゆきまるほどではないにしても、あと何十年も生きられるはずだから。死んでからあの世でおじいちゃんに会っていろんな思い出話をできるように、毎日できることを自分なりに頑張ろう。

おじいちゃんに会いたいと思うたびに、そんな風に決意を新たにしています。

 

田舎の駅に降り立つおじいちゃんの図。(完全に想像。)

f:id:butakosan:20170818000939j:plain